浄土真宗 |
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浄土真宗の寺院 |
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京都の浄土真宗の寺院 |
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浄土真宗の開祖である親鸞は、師である法然の浄土宗の教えを少し 進展させ 阿弥陀仏の他力本願を信じて、念仏を唱える回数ではなく 阿弥陀仏を信ずる心があれば誰でも極楽往生できると説きました 阿弥陀仏の本願力を信ずる「絶対他力」を強調した教えが 浄土真宗の真髄です ![]() 本願寺派、大谷派、仏光寺派など10派に分かれていますが 代表的な派は本願寺派と大谷派です。 ■本願寺(本願寺派) ![]() 本願寺(西本願寺) 京都にある浄土真宗の寺院の代表は本願寺です 本願寺は浄土真宗の開祖の親鸞が没後、娘の覚信尼が 1272年(文永9年)東山の山麓の大谷に御影堂を建立したのが始まりです。 後々、延暦寺の宗徒に襲撃されたり、当時本寺であった石山の本願寺も 戦国時代の合戦で失い各地を転々としました。 1591年(天正19年)豊臣秀吉が堀川六条に寺地を寄進し本願寺が 建立されました。西本願寺の前身です。 1602年(慶長7年) 徳川家康は本願寺の教団を弱体化させるため、 東の烏丸七条の地を寄進し、もう一つの本願寺を創建させました。 これによって本願寺は東西に分裂し それ以後堀川六条の方を「本願寺」(西本願寺)と呼び 後から出来た烏丸七条の方を「東本願寺」と呼ぶようになりました。 また、本願寺(西本願寺)の系列 の寺院を本願寺派 東本願寺の系列の寺院を大谷派と呼びます。 本願寺派(西本願寺)の主な寺院では、大谷本廟、北山別院、日野誕生院 などがあります ○ 大谷本廟(西大谷) 元は、親鸞の没後に娘の覚信尼が智恩院の北に廟堂を建てたのが始まりですが 本願寺の東西分裂によって 1603年(慶長8年)徳川家康の命で東山の五条坂に移転しました。 ○ 北山別院 元は天台宗の寺院で、比叡山の三千坊の内の一つでしたが、 江戸時代に本願寺の別院として再興され、浄土真宗の寺院になりました。 ○ 日野誕生院 その名のとおり、親鸞が生まれた地とされています 誕生院保育園には親鸞が生まれた時に産湯を使ったといわれる 「産湯の井戸」や"へその緒"を納めたといわれる 「胞衣塚」が残っています ■東本願寺(大谷派) 1602年(慶長7年) 徳川家康の寄進で創建された東本願寺は、 三代将軍家光によってさらに寺地が与えられましたが、度重なる火災と 1864年(元治元年)の蛤御門の変などで殆どの堂は焼失してしまいました。 今の建造物の多くは1895年(明治28年)に再興されました。 御影堂は高さ38メートル、幅76メートル、大広間は927畳の広さがあり 木造建築では世界最大の規模を誇っています。 ![]() 東本願寺 浄土真宗東本願寺派(大谷派)の主な寺院には ○ 大谷祖廟(東大谷) 親鸞の娘の覚信尼が、智恩院の北の大谷に本願寺の祖廟を建てたのが最初で その後本願寺の東西分裂と徳川家康の命により、西本願寺は五条坂に移転しました そして、東本願寺の祖廟は境内に残り、1670年(寛文10年)に 現在の八坂神社の東南に移りました。 ○ 岡崎別院 東本願寺の達如が、宗祖の遺徳をしのんで、御坊を立てたのが始まりです。 旧仏教の側から弾圧を受け、越後に流された親鸞はここから出発し 帰ってからもこの寺に住んだといわれています。 ○ 了徳寺 一般に大根焚きで知られる寺院です。親鸞が愛宕山に参拝する途中に この寺に立ち寄った際、村人達が大根を焚いて歓迎してくれたので、 お礼に十の文字の「すすきの名号」を書き残したといいます それを徳として12月の報恩講の日に、大鍋で焚いた大根焚きが 参拝客に振舞われます これらの各寺院が浄土真宗の本願寺派と大谷派の代表的な寺院です。 その他、浄土真宗には仏光寺派、高田派など8つの派があります。 |
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